失われる物語について


あの日から、身の内から湧き出る思いは、いつまでも濁ったままだ。
わたしはわたしをどうすればいいかわからず、ずっと途方に暮れている。
あの日、が果たしていつを指すのかというと、それは2024年になって8日目のことだ。
わたしは、ケンティーSexy Zoneを抜けるという知らせを受け取って、「ああ、終わるのだな」と思った。
何が、ではなく全てが。わたしが信じてきたもの、信じたかったもの、これから先に夢見た全て。ふまけんという唯一無二の美しい物語が、終わるのだと思った。

こうなってみて、じっくりと中島健人というアイドルについて考えてみると、わたしは健人担を名乗りながらその実、ふまけんにしか興味がなかったのかもしれない、ということに気づいた。
ふまけんが、ふまけんのことを、意識しているのが好きだった。自分たちに寄せられる期待や、羨望や、邪な何か、清濁全てを知ってなお、私たちにここぞというときに見せてくれる背中合わせの姿が好きだった。
ふまけんが背中合わせになる時、その瞬間、世界は完璧になるとさえ思っていた。全てが二人を輝かせるための舞台装置だった。二人の背中の間に、決して交わらない視線の先に、未来や永遠があるのだと、信じて疑わなかった。

ああ、わたしは、「ふまけん」の物語をずっと読み続けていたかったのだ。
終わりさえ、想像しなかった。愚かにも。
ふまけんがふまけんのことを何よりも大事に思っていたと信じたい。誇らしく思っていたと信じたい。
ふまけんの間に、他の誰の物語も必要なかった。だから、風磨くんがあの日ラジオで言った言葉で、わたしはふまけんに叩きのめされて救われた。令和最大級のふまけんだったし、今後100年現れない奇跡のシンメなのだと思い知って、それが故にもう何も言えないのだと気づいた。部外者が、何を、どんな言葉で伝えるというのか。引き留められるというのか。
あの、菊池風磨にできないことを、誰が。


そうか。これまでの日々は、ただ毎日が奇跡だったのだと思い知る。
彼が見せたいものと、わたしがみたいもの。それらがたまたまイコールで結ばれていたというだけの。
すれ違って初めてそのことに気づくね。

ずっとふまけんの物語を読み続けたかった。
わたしは、新しいアイドル像なんてどうでもよくて、グループの名前や体制が変わることもどうだってよくて、全部好きにしたらいいよ、と思う。
二人が隣にいないのなら、その先にある結果が世界的な成功であれ、夢の達成であれ、国立競技場での公演であれ、わたしには何の価値もない。それはわたしの見たい物語では、もうない。

どんな時も、あなたの全てを、肯定してあげたかった。(物語が続く間は)

わたしがふまけんの間に、どれだけの夢を見たか、あなたは知らないでしょう?
あなたが風磨君を見る時、あなた自身がどんな顔をしていたか。あなたがどれだけ無垢な顔をしていたか。無邪気だったか。幼かったか。アイドルではなく、ただの中島健人としてそこにいたか。
わかるはずがない。わかるはずがない。わかるはずがない。
あなたがどれだけ幸せそうな顔で笑っていたか。誰にも見せない顔で、風磨君と笑っていたか。
わかるはずがない。

全部、呆れるほど美しかったなあ。

世界を置き去りにして、輝きながら走り去っていった、いつかの流れ星はあなたたちだった。



結局ふまけんかよって、あなたは思うだろうか。思えばいい。事実、わたしにはそうだった。
馬鹿みたいだって笑えばいい。それ以外の仕事はどうだってよかったのかよって怒ればいい。
どうだってよかったよ。何だってよかったよ。
ふまけんの存在に比べれば、それ以外は全部些事だよ。
それだけの価値があったんだ、わたしには。
理解しなくていい。わかるなんて言うな。誰も。
わたしの痛みは、わたしだけのものだ。


もう行かなくてはいけない。お互いに、進む方向が違うと気づいてしまったからには、一緒には行けないけれど、でもそれは、不幸では決してない。
振り返れば美しかったと、いずれ笑う日がくるのだろう。その日までただ胸が痛むというだけ。
まだ足取りが覚束ないのは、幸せだった日々の欠片がまばゆくて目が眩むからだね。
ただ、わたしが続くことを切望した物語は、永遠に閉じられるというだけ。
そう言い聞かせてみるだけ。

痛いね。
失うことは痛いことだね。
痛く無くなる日がくるのかはわからないけれど、まだ人生は続く。

それも今はただ苦しい。


ぜんぶ、一生懸命生きていたからだよと、わたしたち、100年後に笑って死のうね。

さようなら、嵐 / 拝啓、嵐の皆様へ

「さようなら」という日本語が好きだ。さようならほど美しい日本語はないんじゃないかと思うから。

「さようなら」の語源は「左様ならば仕方がない」である。

そして「左様ならば仕方がない」とは「あなたとは別れたくないけれども、そのようにのっぴきならない理由なら(左様ならば)仕方がないけど、わたしたちここでお別れしましょう」の意だ。

さようならは、こうした惜別の思いがぎゅうぎゅうに詰め込まれた言葉だ。

今日わたしから嵐に贈る言葉は、だから、「さようなら」しかありえない。

 

 

NETFLIXで配信されていた「ARASHI’s diary Voyage」

実は今年の途中から個人的な理由で見なくなっていた。それというのもコロナのせいで、あらゆる現場がなくなっていた時期に、5×20の映像をVoyageで見たら引くほど泣いてしまったからだ。

ああ、もうこんなコンサートできないのかもしれないと思って泣いて。

こんなにたくさんの人が集まって、声出して笑って泣いて、こんなことが一年前にはできていたなんて奇跡みたいだ。奇跡だったんだ。そう思って泣いて。

見るのがとんでもなくしんどいコンテンツになってしまって、しばらくVoyageからは離れていた。

またぼちぼち見始めたのは、個人のソロインタビューがメインになり始めてから。

コンサート映像がないとはいえ、それでも、さすがにJun’s diaryには耐えがたい苦しさと愛おしさがあった。

本当なら今年の11月、嵐はアメリカでコンサートをしているはずだったのだ。

そのために一年前から仕込んできたあらゆること、Turning Up、各シングルの英語ver配信、最新デジタルシングルParty Startersに至るまで、あらゆることの文脈が崩れ、台無しになる中、それでも前に向かって、2020年の終わりに向かって進んでいこうとする潤君の姿に、なんというか、感動を飛び越えて畏怖のようなものすら感じたように思う。

不屈の意志。不変の愛。僕はエンターテイメントの力を信じていますといっていた、2008年の松本潤。その志がすべて集約された今日、2020年12月31日。

嵐は活動を停止する。

 

あの発表から二年もあったのに、全く全然実感がない。実感もないけど不安もなかった。嵐からの愛を疑う余地もないほど、愛されていた。それだけがわたしにとっての真実ですべてだった。

美しい終わりに向けて粛々と閉じていくと思っていたわたしの予想を裏切って、嵐がこの二年でやってきたことはひたすら挑戦、挑戦、挑戦だった。嵐が誰より嵐を諦めていなかった。それはわたしが2008年のあの日、転がるように好きになった五人と何も変わっていなかった。

嵐が嵐である限り、わたしはきっとこの五人のことが好きだ。そう閃くように思ったことを、今も思い出す。嵐が嵐である限り、嵐らしくある限り。嵐らしさなんて、いまだに言葉に出来ないんだけれど、それは分かる人にだけ分かるものでしかない。見つめてきた人にしかわからないもの。

アイドルを応援していくうえで経験するあらゆること、あらゆる喜怒哀楽、不安や葛藤、あらゆる困難、奇跡のような瞬間、そのすべてをわたしに最初に教えてくれたのは嵐だ。嵐を通じてたくさんの友達ができたし、いくつかの友情を失ったりもした。

嵐はわたしの夢であり、目標であり、先輩であり、同僚であり、友人であり、兄弟であり、誰よりも遠く、何よりも近く、一緒にいてくれた人生の一部だった。

 

VS嵐嵐にしやがれ、十年以上続いた番組が最終回を迎える度にTwitterのTLには寂しいという文字が並んだ。嵐のファンじゃない自分たちがこんなに寂しいのだから、嵐のファンの人はどれだけの寂しさか、という言葉も何度も見た。さすがに、わたしの妹(非ジャニオタ)からもラインが来るぐらいだった。

寂しさなんて、今はまだない。寂しいだけで済ませられるなら、どれだけ幸せか。

わたしは嵐にしやがれの最終回、感謝カンゲキ雨嵐を歌う五人を見て、めちゃくちゃ泣いた。嬉しくてじゃない。悔しくてだ。何で自分は今ここでテレビ越しにこれを見てるんだ、どうして直接会って、目の前で嵐!ってC&R出来てないんだって、コンサートがやれない現実に猛烈に怒りが込み上げてめちゃくちゃに悔しくて泣いた。どうして、こんな、最後に力いっぱい名前を呼んであげることもできないなんて。こんなのってない。

これからくるのだ。ぜんぶ。寂しさも、喪失感も、きっとこれから、ぜんぶくる。嵐ファンは大丈夫だけど大丈夫じゃないんです。消化して受け入れる、その時間がこれから必要なんだと思う。嵐が今日までどれだけ手を尽くしてくれたか、わかっています。でもそれでも、それを受け取って処理するはこちら側の責任だから。こればっかりはどうしようもない。

 

 

今日のオンラインコンサートが終わったら、お互いどんな気持ちになるんでしょうね。

結局、失効させる勇気の持てなかった嵐ファンクラブの会員資格。昨日更新してきました。

08年に入会したわたしの番号は33万台。当時はこの数字ですらとてつもない数字だと思っていたのに。

本当にいろんな夢を見せてもらいました。CMが一つ決まる度、大騒ぎだった頃を懐かしく思います。最終的に国の式典で歌まで歌わせていただくようになるんですから、本当に人生何があるかわかりませんよね。

それでも、どんなにすごい夢を見せてもらっても、すごいことを成し遂げていても、わたしがいつも嵐の五人と見たかった夢はコンサートでした。コンサートで一緒に遊ぶこと。ただそれだけが、わたしがどうしても叶えたい夢で、どうにもうまくいかない夢でもありました。会えなかった年も少なからずあったし、そのどん底から這い上がるやり方も、全部嵐に教わったように思います。

今はこういう状況で、どん底の底が見えない状況ですが、それでもなんとかやれているのは、やっぱりそういう経験があったからだと思います。

いいこともわるいことも、高く昇っていく時も、こうして降りていく時も、その全部の景色を見せてくれて、手を引いて歩いてくれて、ありがとうございました。

巷ではいついつ再結成なんて、まことしやかにささやかれたりもしていますが、わたしは五人のやりたいようにやってくれたら、それでいいと思っています。だから、期待されてるからまた集まらないといけないなんて、思わないでください。そんなプレッシャー感じながら、生きないでください。自分の望むようにやってください。皆さんの人生は、皆さんそれぞれのものです。集まりたければまた集まって、コンサートをやりたければ駆けつけますからいつでも言ってください。でももういいや、って思ってもいいんです。だって、もう一度なんて考えられないくらいいつだって全力で、全てで、嵐でいてくれた五人ですから。ただどうか、健康にだけは気を付けてください。

どこにいても、何をしていても、誰を思っていても、幸せでいてください。絶対に。

わたしもそうなれるように努力します。

 

 

では、本日20:00。画面の前でお会いしましょう。

 

結婚するならホソクみたいな人がいい

唐突な話だけれど、わたしには今、結婚する予定も、その願望もない。けれど、未来のどこかで万が一、いや、億が一にも結婚ということを考えるのであれば、その相手はホソクみたいな人がいいなと、最近思っている。

 

 

ホソクの活動名はJ-Hopeだ。希望を背負いこむなんて、なんつー重たい名前……というこちらの第一印象をよそに、彼は本当にグループの中で人一倍明るい振る舞いが目立つ。BTSというグループを観察するようになれば、そのことにはすぐ気づかされる。小さなことにも感嘆の声をあげ、年下のメンバーたちとも同じ目線でよく遊び、はしゃいであげることのできる懐の広いお兄さん。面倒見がよく、リーダーであり同い年でもあるナムジュンとは気の置けない関係でもある。

グループが円滑にまとまり、皆が気持ちよく過ごせるような雰囲気づくりという点において、彼の存在はめちゃくちゃでかいとわたしは思っている。

彼はとても優しい。誰もが明るく優しい彼を好きになる。けれど、その優しさはただ真綿のように柔らかなだけかというとそうではない。そして、そのことが何よりも大切だし、ホソクの魅力の一つだと思う。

 

 

優しさ、という言葉を考える時、わたしはいつもある言葉を思い出す。

2008年8月。嵐が二度目の24時間テレビメインパーソナリティに抜擢されたその年。番組の最後でニノがメンバーへの手紙を朗読した。

その中で、ニノは潤君のことを「温かい人」と表現していた。

 

潤君は一見クールで怖い感じに見られますが、非常に温かい人です。

優しい人はそこら中にいますが、あなたの優しさには温かさがあります。

その温かさについていこうと思えたんです。

 

 

ホソクの優しさにも、温かさがある。それは、血の通った温かさだ。見せかけではない、うわべだけではない、本当の温かな優しさだ。

時に、優しさは甘やかすことと見分けがつかなくなることもあるけれど、ホソクはそこを間違えない。そのことをわたしが痛切に感じたのが「BREAK THE SILENCE:DOCU-SERIES」Ep.2の一場面だ。

2019年開けてすぐのシンガポール公演。初めて訪れた蒸し暑い会場のコンディションにメンバーみんなが戸惑う中、それでもステージの幕は否応なく上がる。

慣れない会場、予想しなかった暑さ。そのせいか、思うようにパフォーマンスができなかったらしいジョングクが、公演終了後、ステージ裏で一人背中を丸めて悔し泣きをしていた。探しに来たジミンに慰められ、ジョングクはその後楽屋へと戻るけれど、そんな消沈しているジョングクに、ホソクはいつもの明るさを消して、真剣な顔で話し始める。

 

「ジョングク、僕が今、話してあげたいことがある」

「体力の調整も考えておかないと……ジョングクが舞台で本当に頑張る姿はすごくいいと思うよ。ファンのみんなもそれをみてわかるし、喜んでくれるから。でも、疲れないようにコントロールするのもプロとしての心構えだと、僕はそう思うよ」

「そこでもしジョングクが舞台に上がれずに、くたくたになったらどうなる?」

「真剣に、よく考えてみてほしい」

 

ジョングクは、ホソクのその言葉たちを、まだ少し濡れた瞳のまま、開きかけた唇を閉じることも忘れて聞いていた。

それはきっと、絶対に誰かが言ってあげなければいけないことで、でもちょっと伝えるのには勇気がいることだ。それを、この人が言うのだな、と思った。リーダーのナムジュンではなく、最年長のソクジンでもなく、普段あんなに明るく陽気に振舞うこの人がこれを言うのか、と正直ちょっと驚いた。

ああ、この人は甘やかさない人なのだな、と思った。厳しい、けれど愛情深い言葉たち。

相手のことを本当に想って、厳しくしなければならない時に、本当に真実厳しいことが言える人というのはそういない。

人は、優しさだけでは生きていけず、厳しさだけでは救われない。けれど、ホソクは強さの上に優しさを、優しさの中に厳しさを持っている稀有な人だとわたしは思う。

 

「In the SOOP」のEp.5でも、ホソクの優しさが光る場面がある。

一度ソウルに戻ったメンバーが、再び森へ帰る日。ホソクと同じ車になったテヒョンが、運転しながらぽつぽつと、制作途中のミックステープのことに関して悩みを口にする。

自分のやってきた音楽、自分の好きな音楽をファンの子たちに聴かせてあげたくて、ただそれだけで作っているけど、結局成果と結び付けて考えられるのではないか、と。自分はそんなこと全然気にしていないのに、と零すテヒョンにホソクは次のように言う。

 

「Vが初めて出すものだから、きっとみんな期待すると思う」

「でもこれが最後じゃないじゃん」

「僕はVがどんな感情を抱いていたって、全部がすごくいい方向だと思うよ。それが期待感であれ、結果に対するそういう色んな感情であれ。とにかく今、チャレンジしてるんだから」

「だからVがやりたいことをやって、期待はそのまま受け止めて、楽しんで。それでいいと思う」

 

大丈夫だよ、気にしないで。そんなふうに言ってあげることもできただろうし、わたしなんかはそんなふうに無責任に言ってしまうかもしれないこの場面でも、ホソクはやっぱり誤魔化さない。その上で、やりたいことをやって、色々あるだろうけど、それすらも楽しめとテヒョンの背中を押してあげている。

やってみたいけど、怖くてできない。そんなことは日々の中でも大なり小なりたくさんあって、そんな時に、この時のホソクみたいに言ってもらえたら嬉しいし、一歩踏み出す力になるだろうなと思う。

 

 

ホソクと一緒にいられたら、自分の人生の可能性がぐんぐん広がっていきそうだなと思えてわくわくする。無意識に尻込みしてしまうような場面でも、ホソクに「楽しんで」と言って、背中を押してもらいたいし、もしも間違ったことをしてしまったら、その時はそれをちゃんと叱ってもらいたい。

 

だからわたしは、結婚するなら、ホソクみたいな人がいい。

 

こんな世界だけど、こんな世界で生きていく/わたしの2020年とDynamite

本当に、こんな世界に誰がしたんだ、と思う。
なぜこんな世界になってしまったのか。
3月以降何度も胸に去来した、暗澹としてやるせない、行き場のない悲しい気持ちは、わたしの口を、足取りを重くさせ、動けなくさせた。


年始には決まっていたSexy Zoneのツアーも、初日の延期の発表がなされ、振替公演の案内が来て、それもダメになり、感染の第一波が過ぎた頃、二度目の振り替え案内が来て、でもやっぱりそれもダメになり、オフラインでの公演は、本当に、全部、駄目になってしまった。
慣れとは恐ろしいもので、二度目の振り替え公演がポシャった時、わたしはもう以前ほどショックを受けていなかった。これがwithコロナの世界か…とどこか他人事のような気持ちでいた。たぶん、これ以上、傷つかなくていいように、そういうふうに気持ちを切り離すしか出来なかったのだと思う。

ツアーが続々と延期になり始めた春のことを、わたしは今も時折思い出す。
あの頃、みんな無理にでも笑おうとしてた。
わたしの大好きなアイドルたちは皆、必ず春が来るから、諦めないからと言ってくれて、それに呼応するようにツイッターのタイムラインも、コロナになんか負けないでわたしたちも笑っていようというような妙に前向きな雰囲気に溢れていた。
この状況が、無理矢理に希望や約束を引き剥がされ、昨日までの現実と断絶されてしまったこの現実が、つらくて悲しくて苦しくて消えてしまいたいと、吐き出すことも許されないような、あの空気。
本当に無理だった。本当に苦しかった。空元気でも明るく振る舞えない自分は、世界一ダメな人間だと思っていた。わたし以外の人はみんな強くて前を向いていて、わたしだけが冬の中に取り残されている。そんなふうに感じて、どうしようもなかった。実際にはきっとそんなことはなくて、みんな悩んだり悲しんだりして、それでも何とか前に進もうとしていただけなんだけど。それはよくわかっているんだけど。
自分に余裕がないと、全然何もかもダメで、許せなくなる。そんな自分をまた嫌いになる。


誰かに無性に会いたかったけれど、誰にも会いたくなかった。
現場がなくなり、予定されていた自担ケンティーのドラマもいつから放送が始まるのかわからないまま、新曲も無事に出るのか、見通しも立たなくて、ただ家と職場だけを無言で行き来していた緊急事態宣言の間。
わたしは本当に自分が何なのか、何の為に生きればいいのかわからない、と思っていた。
ジャニオタというアイデンティティを失った自分は、何も持っていなかった。恋人も家族も、やりたいことも、なにも、ない。くたびれ、死にそうな顔で(実際に心は半分死んでいる)途方に暮れている、アラフォーの独身女性。会える現場も次の約束もない自分は、きっと世間から見ればどうしようもなく負け組なんだろうなと思ったりもした。
それまで考えもしなかった、アイドルを追いかけていない自分という可能性を、考えることが多くなった。

こんな希望も何もない、真っ暗闇の世界でどう生きていけばいい?
昨日まで確かに手を引いてくれていたものを失って、覚束ない足取りで、必死に1日1日を進む。
それまで楽しめていたテレビの音楽番組も、どこか上の空で、オンライン配信も、本当はこれを現場で見ていたはずなのにと、悲しまなくていいのに悲しい気持ちになったりする。

このわたしは一体何なんだろう。
みんな楽しそうにしているのに。

いつからか、こんな世界で、いつ事態が終息するかもわからないこんな世界で、一緒に走りたくても走れないよと思うようになっていた。
今だから認められる。
わたしはもう、現実に負けないように、頑張ることに疲れていた。
置いていかれないように、頑張ることに疲れていた。我慢することに疲れていた。生きることに疲れていた。


そんな時にテレビの中から聞こえてきたのがDynamiteだった。

'Cause ah, ah, I'm in the stars tonight
今夜、僕は星の中にいるから

So watch me bring the fire and set the night alight
僕の火花でこの夜を明るく照らすのを見守っていて


ああ本当に、この真っ暗闇の世界を、この人たちは、この人たちなら、きらきらと輝かせてくれるのかもしれない。そう思った。理屈ではなく、本能で、そう思った。
見守っていて、という言葉が嬉しかったんだ、わたしは、本当に、嬉しかったんだよ。



すぐに映画を見に行って、最新のツアーBlu-rayを買った。
「LOVE YOURSELF」という彼らの公演を見て、そうして思った。
もう一度、わたしはわたしを愛することを始めてみよう、と。
そして、相変わらずこんな世界だけれど、こんな世界すらもほんの少しでもいい、許そうと思った。
だって、この世界はわたしが生きて、君たちもまた、生きている世界だから。


「MAP OF THE SOUL ON:E」初日。
アンコール曲RUNの後、はしゃぎ疲れたらしい7人がそれでも「すぐ次行こう!」「次!」と言って始まった「Dynamite」
ジョングクが歌い出した瞬間、涙がぶわりと溢れて、前が滲んで全然何も見えなくなった。全然、泣くような曲じゃないのにね。
アルバム曲じゃないこの曲を、やってくれるとは思ってなかったから、本当にこれ以上ない贈り物を受け取った気持ちだった。
Dynamiteは本当に、わたしにとってただの歌じゃない。本当に特別な、一生に一度出会えるかどうかの特別な一曲になっていたのだと気づかされた。


ジミンが自分の挨拶の前に、もうすでに少し声を震わせながら、ARMYのみんなが少しでも元気になれるようにと思って作った曲だったけど、逆にたくさんの愛を送ってもらった、とDynamiteのことを語った。
その後の挨拶で、とうとう堪えきれなくなって、パーカーの袖で涙をぎゅうぎゅう拭いながら「メンバーやファンのみんなと楽しい時間を共有することが、自分が一番やりたいことだったのに、全部出来なくなって、どうしてこんな目に合わなくちゃいけないのか分からなくて」と言葉を詰まらせた。
そんな彼の姿は、いつかのわたしの姿だったし、今なお大切な人に会いたくても会えなくて苦しんでいる、この世界の誰かの姿だと思った。

ああ、きっとはじめから、現実が辛くてどうしていいかわからなかったのはわたしだけじゃなかったんだ、と思えて、また勝手にジミンに救われてしまった。



世界はすぐに良くなったりしなくて、心は簡単に揺らぐし、繋いだ手もいつの間にか冷たくなる。
それでも、やっぱり生きていくんだと思った。生きていきたいと思った。笑って生きてほしいと思った。
この手を握り直して、深い夜空の中、一番強く輝く星の中に、君を探しながら。



覚えておきたいし、覚えておいてほしくて、この言葉を書いている。
たった数分の一曲が、刹那のパフォーマンスが、誰かの生き方を変えることもあるということ。
どこかで誰かの心を掬い上げることもあるということ。
覚えておいて。信じておいて。誰よりもわたしがわたしに希う。

だからわたしはいつだって、アイドルという仕事を、その生き方を、尊いと思うんだ。

ジャニオタ、BTSにハマる

この世で一番、美しい光を見た。

その瞬間はいつだって、日常の顔をして、目の前に現れる。

刹那の間に、闇を駆け抜けていく流星のよう。

 

嗚呼、命が削れ、力強く弾けて煌めく、その音がする。

 

 

 

 

 

その瞬間は、予期せず訪れてしまった。

9/12の「THE MUSIC DAY

この日はついに、Sexy Zoneに聡ちゃんが戻ってきてパフォーマンスする、その記念すべきお祭りの日だったため、わたしも早々にテレビの前でスタンバイしていた。

で、そのSexy Zoneの前にパフォーマンスしたのが、あのBTSだったわけだ。名前だけはすごい知ってる。世界でめっちゃ売れてるすごい韓国のアイドルでしょ? まあでも、わたしはそんなに興味ないし、K-POPはそもそも沼が深そうで怖いから近寄りたくないなー、と思っていた。本当に、ガチで、切実に、そう思ってたのに。

 

曲が流れだしてすぐ、めちゃくちゃ引き込まれてしまった。ポップなセットも可愛いし、曲もキャッチ―で耳に残るし、何より歌詞がめちゃくちゃよかった。このコロナ禍の中、鬱々とした暗いエンタメ界の希望になるような前向きなメッセージに、初見で心打たれてしまっていた。めちゃいい曲やんけ~!となるまで秒。

これが全米ビルボード一位の曲か~、さすがに納得の良さ!と思い、これは繰り返し見たいやつ!ということで、わたしは軽率に「Dynamite」をHDDに残すことを決める。

お気づきか?もうここからすでに沼への一歩が始まっているのである。

 

翌日はSexy Zoneの復活を噛み締め、それだけで胸いっぱいだったんだけど、翌月曜になっていよいよ、わたしはDynamiteのリピートから抜けられなくなっていた。

はじめはね、やっぱり顔の見分けがつかないわけですよ。どのグループも見慣れない時ってそうだと思うけど、わたしは特に今髪色が似てるのもあって、Vとジミンの見分けに最初ほんと苦労した……本当に同じ顔に見えてたんだよ……二人とも映像ではサングラス掛けてるし……まあ、それも二日目ぐらいには全員なんとなく見分けられるようになって、この頃にはYouTubeですでに動画を漁り始めていた。

でも、ここでオタク気づきます。もっといいコンテンツあるだろ、これ、と。韓国アイドル供給量がすごいときいてるぞ、こんなもんじゃないだろ?と、Yahoo!でいそいそと「BTS 新規」で検索。結果、Vliveにたどり着きます。

これがよくなかった。マジ、これは悪魔のコンテンツ。みんな、気をつけて(?)わたしは忠告しましたからね!

無料でこんなに動画見られていいんですか?! ねえ?! 気づけば時間がどんどん溶けていく。こわい。バラエティも番組もあるし、MVもあるし、MVの練習動画もある。およそオタクが見たいと思うものが一通り揃ってる。こんなことあっていいのか……?とジャニオタであるわたしは白目を剥いた。

もうこの時点で後戻りできない感がすごいわけ。沼も沼。ずぶずぶじゃねーか、と思いながら止まらない動画再生。

 

想像してみてください。韓国アイドルといえば、ちょっと近寄りがたさすらある、バキバキに揃った鬼気迫るダンスをする、わたしにはまるで軍隊みたいな集団に見えていました。あの圧倒的なパフォーマンスが真っ先に刺さる人は刺さるんでしょうが、わたしはあれが本当に怖いな、と思ってたんです。失敗したら殺されそうじゃん…完璧すぎて怖かった。人間じゃないみたいで、感情がないみたいで。

(思うに、わたしにとって過ぎたる美しさは、どうやら畏怖に繋がっているらしい。美しすぎて人間じゃないみたいで怖い、という感情は、時折コンサートで襲ってくるし)

でももう、動画を見れば見るほど、その想像と現実のギャップにやられるわけ。メンバー同士の仲の良さや、可愛さや、見た目のクールさに反した天然ぽさとかに、ひたすらかわいいむりかわいいむりかわいい……てなるわけ。甘いのとしょっぱいのを交互に食べると無限に食べられるやん?あれと同じ。可愛いバラエティ動画と、かっこいいパフォーマンス動画を交互に見ると、その高低差で耳がキーンてなる。そのぐらいギャップに一週間やられ続けた。

 

こうなってくると、自然と推しも決まってくる。というか、最初に見た動画がDynamiteのMVコメンタリーの映像で、その時ほぼほぼ心はジミンちゃんに決まっていた。

あのー、このコメンタリーの中で、末っ子ジョングク(ジャニオタ向けに説明すると、MUSICDAYのDynamiteの時に、イントロでセンターにいて最初にソロパート歌ってたあの子です)が自身のソロカットの撮影のことを話し始めた時に急に「この撮影の時、ヒョンたちのこと思い出しましたか?」て質問しだした人がいたんですよ。(ヒョンは韓国語でお兄さんの意。すぐ調べた)それがジミンちゃんだったんですけど。

この「ヒョンたちのこと思い出しましたか?」ていう質問の仕方を聞いた瞬間、

いやいやまって、かわいすぎる……!!!!!

と、わたしの中で可愛いメーターが振り切れてしまった。

だって、もうとっくに成人してる、あんなバキバキのダンスする人が、ヒョンたちのこと思い出しましたか?って、なにそれ、なにその訊き方可愛すぎるじゃん……しかもその質問に対して、「ヒョン…w」て半笑いでスルーするグクも相当かわいいし、スルーされてもしつこく訊き続けるジミンちゃんは輪をかけて可愛いし、なにこれ、なにこの可愛い生き物は…と、スマホを握りしめて震えてしまった。

それはわたしの中で、それまで韓国アイドルに抱いていた「完璧すぎて怖い」というイメージが完全に吹き飛んだ瞬間でもあった。

 

そうして、とりあえずメンバーの顔と名前が一致する状態で、いざ映画鑑賞へ。

映画の内容のネタバレを含むので、ここから先は畳みます。

 

 

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生きて、死ぬこと

祖母が死んだ。

ちょうど一週間前のことだ。

朝の六時三十分。母からのメールで訃報はやってきた。89年の生涯だった。

 

その前日。

妹から、祖母の余命が長くないことは知らされていた。胆のうガンが見つかったという。あと2、3か月の命。何があるかわからないから、近いうちにお見舞いにいこうね。そんなやりとりをしたばかりだった。まことに急な話である。

 

祖母は、福岡の南の方の、超がつくような田舎に暮らしていた。山間の急勾配を切り拓いて作られた棚田と茶畑。その合間に数件の家々がぽつぽつと軒を連ねており、山を下らなければ商店も病院もない。月に何度か、車で行商人が日用品や加工食品を売りに来るような、いわゆる、限界集落である。

住民のほぼほぼ全員が農家であり、祖母もその例に漏れず、農業で生計を立てていた。

そんな祖母が畑で倒れたのは4年前。9月22日。暑い残暑の頃だ。

わたしはこの日を正確に覚えている。なぜならその日、私はABC-Zのファンミに出かけていて、めちゃくちゃ浮かれていたからだ。その次の日の朝、祖母が倒れたと知らされたわたしのショックは筆舌に尽くしがたい。

わたしは、祖母が死にかけていた日、ずっと死ぬほどうかれていたのだ。

何の因果だ、と思った。何も悪いことをしていないのに、何か罰が当たったような気持ちだった。わたしはこの日のわたしのことを、怒ればいいのか、許せばいいのかわからないでいる。そのどちらの必要もないのだとしても。

 

祖母はたまたま通りかかった近所の人に発見され、一命を取り留めた。脳梗塞だった。それまでにも軽い脳梗塞を一度経験していた祖母の体には、左半身の麻痺が残った。祖母を引き取って介護するといったのは、その年、介護の資格を取得した母だった。祖母は、大事に暮らしてきた、祖父との思い出が詰まっている自宅に、倒れてから一度も帰ることなく、わたしの実家へとやってきた。

それから四年である。長かった。ただ、長かっただろうと思う。亡くなったと知った時、正直少しほっとした。やっと祖母はこの生から解放されたのだと思った。

わたしは、それまで一人きりで、畑を守り家を守ってきた祖母が、急にほぼ寝たきりの状態になり、介護される生活になってしまって、すぐに呆けてしまうのではないか、と思って怖かった。弱っていく祖母を見るのは怖かった。見たくなかった。

けれど、わたしの不安に反して、祖母は最後まで呆けたりしなかった。幸か不幸か、最後まで聡明であった。

たまにいくデイケア先の職員さんたちからは、いつも笑顔でにこにこしてらっしゃいますよ、といわれていたらしい。想像する。それまで住み慣れた集落を離れ、遠い地の、知らない町の施設で、にこにこと愛想よくふるまう祖母の姿。わたしは自分自身の首がゆっくりと締まっていくようなしんどさを覚える。

デイケアで、絵を描いたりなんだり、手を使わせるような遊びをさせてもらっていたようだが、それを祖母は「あんなのは子供だましたい」と一笑に伏していたらしい。祖母は、以前よりちょっとしたことでよく泣くようになっていたものの、気高さを失ってはいなかった。それもまた、わたしの呼吸をしんどくさせた。

 

祖母の人生は、順風満帆ではなかったと思う。

その当時としては珍しく、上の学校へ進めと言われるほど頭がよかったらしいが、若くして農家であった祖父と大恋愛の末、結婚する道を選んだそうだ。母含む、二男一女に恵まれたものの、長男は十七歳の時に事故で亡くしている。祖父とは43年前に死に別れた。

たまに想像した。もしも祖父や、伯父が生きていたなら、もっと違っていたのだろうか、と。祖母の晩年は、母の人生は、存命の伯父の人生も、きっともっと違っていただろうと、詮無いことをたまに想像した。

 

 

小学校の最後の三年間は、毎年夏休みも冬休みもまるまる祖母のうちに妹といた。

いつもお腹を空かせていた実家と違って、祖母のうちでは食べ切れないくらいたくさんのおかずが食卓に並ぶのが嬉しかった。

カラッと揚げられた唐揚げ。おばあちゃんが漬けた高菜漬け。砂糖の入った少し甘いポテトサラダ。青リンゴ味の手作りゼリー。揚げたてのドーナツ。芋団子。

何もなかった。でも全てがあった。毎日川へ行って遊び、神社で遊び、時折、宿題をしろと怒られた。祖母は私たちを甘やかしたりしなかった。勉強せにゃいかんよ。農家は儲からんけん、するもんじゃなか。

祖母は、現実主義者だった。粛々と現実を受け止め、黙々と生きていた。

「そげんこつゆったっちゃあ、しょんなかもん」が、生前の祖母の口癖であったらしい。そんなこと言ってもしょうがないでしょ。全てを受け入れ、抗うでも逃げ出すでもなく、淡々と黙々とやる、祖母らしさがそこに滲む。

 

祖母は最後まで弱音を吐かなかった。

恐ろしく強い人だった。

 

 

 

ねえ、おばあちゃん。

じいちゃんには、もう会えましたか?