読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

君たちに見る永遠、君たちと感じたい刹那

嵐の2015コンサートツアーの当落発表も終わり、今年の終わりが近づいているのを肌で感じる今日この頃。

もう息をしていないと思われていた自分名義は、今年見事に仕事をこなし、無事嵐に会えることと相成った。

2013年LOVEツアー以来なので二年ぶり。まだ実感なんて全然ない。

二年前に描いた未来と、今の自分の状況が違い過ぎて戸惑っている。もし、私が嵐から担降りする時は、そもそもジャニーズを卒業するものだと思っていたし、担降りしたらコンサートになんて行かなくなるものだと思っていた。

けれど実際には、そんなことは全くなくて。

何故だろう、と考えた。

私はなぜ担降りしたにも関わらず、嵐コンに行くことを望んだのだろう。

好きだから。それはある。けれどそれだけじゃもはや説明がつかない。

そもそも私が嵐コンに求めていたのは、本当は一体全体何だったのだろうと考えた。

このことに関して、少し前の記事にも言及したが、私が求める2007年の嵐コンの幻影はもう見れないとわかっていながら、それでも私が嵐コンに向かう理由は何なのか。

相葉担だった時の気持ちの最たるものはやはり、会いたい、ただそれだけだった。

ちゃんと生でその存在を見て、あわよくばやはり認識されたかったし、勘違いでも目が合った?! 手振ってくれた?!ときゃーきゃーしたりしてみたかった。

けれど、伊野尾ちゃんに降りた今、私の胸を占めるのは、確かめたい、という気持ちが一番にある。

もしかすると、私はずっと何かを確かめたくて、あの場所に向かい続けているのかもしれないと思った。

 


嵐とは「永遠があるという城」

私が嵐と嵐コンに求めていたのは、「永遠の証明」だろうと思う。

それはきっと、始まりに過去の残像を求めた自分がいたからだ。過去が過去として遠ざかるのを良しとすることが出来なかったから、あの輝きが永遠であることを願わざるをえなかった。

 

嵐は、特にニノはコンサートの挨拶で言う。

『これからもこの五人でいる』

彼らは、変わらない俺たち、をツアーの度に約束してくれた。

私はそれを聴いて、いつだって感極まって泣いていた。嬉しかったし、ほっとしていた。それが嵐だと思った。いつまでも、私たちファンの近くにいることを約束してくれる、この「不変」こそが、今も私を嵐コンに駆り立てているのではないか、と思う。

私が初めて、嵐コンに入ったのは2009年。5×10ツアーである。

この時にはもう嵐は怒涛の嵐バブルのまっただ中にいた。おそらく彼らにとっても、デビュー時以来、最も忙しい一年だったに違いない。彼らを取り巻く環境は、瞬く間も許されないほどのスピードで変化し続けていた。そしてそれに翻弄される嵐担からの「チケットがとれない」「嵐が遠くにいってしまう」という無数の嘆きが、そこかしこから聞こえていた。

嵐は、もうこれまでの嵐と変わってしまうのではないか、という疑念や不安が、うっすらと嵐担の界隈に漂っていたことを、今もぼんやりと思いだせるほど、あの年はアニバーサリーの祝賀ムードとは裏腹に、地元の嵐担仲間と今後の嵐に関して、かなり薄暗く重たい会議を幾度となく開いたものだ。(あの頃、集まると決まって、嵐これからどうなるんだろう……とかなりのローテンションで口にしていた記憶)

 それを知ってか知らずか、彼らは私たちに約束する。この五人でいる。ずっといる。世間がどんなに変わっても、俺たちは何も変わらないよと笑う。

本当にそうなの? 本当にあなたたちは私が好きになった頃のままの嵐でいてくれるの?

私はきっと、ずっとそんな一抹の不安を抱えていた。だからコンサートという生の現場で、それを確認したかった。

実際には、人は成長するし、彼らも全員が二十代から三十代へと歳を経たことで、2009年と全く同じ嵐かと言われれば答えはノーだと思う。思うけれど。

コンサートの時に、ふと見せるメンバー同士のおふざけや、MCの時の五人だけの空気感、嵐が五人揃って手を繋ぐ瞬間のあの表情は、きっと何も変わらなくて。

一瞬で15周年の、10周年の、5周年の、今まで刻んできたすべてのコンサートのその瞬間と、きっと何一つ変わらないのだと信じさせてくれた。特ににのあいに病気な私としては、にのあいの関係こそ「不変」の最たるものじゃないかなと思っている。二人できゃっきゃしてる時なんか、この人たちジュニアの頃からこうやって笑いあってきたんだろうな、と当時を知らなくてもそう感じさせる何かがある。

嵐を追いかけ続ければ、もしかすると、永遠というものをこの目で見届けることが出来るのではないか、と私は思うのだ。大げさでもなんでもなく、不変を約束し、体現しようとする彼らの積み重なった未来の先に、永遠とはこれだ、という景色があるような気がするのだ。あって欲しいと願ってしまうのだ。

 

嵐という国を治める彼らの城で、年に一度催されるコンサートという名の舞踏会。幕が上がれば、その瞬間に、時間は拍動を止める。

そのお城には、きっと永遠が住んでいる。

 


JUMPとは「千変万化の風」

嵐のことを書いたので、そことの対比でJUMPのことも書いておく。

私にとって嵐が「不変」であり「永遠」を期待するグループであるのに対し、JUMPとは「変化」であり、一瞬である「今」を一緒に感じ続けたいグループである。

たとえ息子であっても、三日も離れて暮らしたなら顔つきをよく確かめろ、というように、成長期の男の子の変化は、それはそれは凄まじい。独身が何言ってんだと思うだろう。私もそう思う。

もう男の子、と呼んでいい年齢でもないのだろうが、全員かなり年下なだけに、やはり私から見たら男性、というよりは男の子の方がどうしてもしっくりくる。そのせいか、私は彼らの成長と変化が楽しみで楽しみで仕方がない。

嵐には変わらないことを望むくせに、私はJUMPには常に変化し続けることを望んでいる。もう、どんどん成長して、どんどんいい男になってくれ!(大の字)

嵐の変わらないメンバー関係もそれはそれで愛おしいが、JUMPはそこもこれから先、ゆとやまのように、刻々と変化していくんだろうなと思う。でもきっと、どんな変化もプラスにしかならないという確信が信頼に繋がっている。彼らの絆があれば、絶対に何があっても大丈夫だと信じられる。この安心感はすごい!

本当に、一瞬だって目を離したくない。瞬いた瞬間に、今見えているJUMPは、きっともうそこにはいないと思うから。

それは過去から未来まで、止まることなく吹き続ける風のようだと思う。

捕まえたと思ったら、幻のように消えて、でもちゃんと「今」を一緒に歩いていると感じられる瞬間が確かにあって。

 

どうか、好きの最大瞬間風速を、いつまでも更新し続けてほしい。

彼らと見るいつかの景色は、きっと想像がつかないくらい、途方もなくきらきらと輝いていると信じている。

 



ここまで書いておいてあれだが、きっと変化の中にあってこそ不変は意味を持つし、どんな時も不変なものがあるから、変化を恐れず飛び込んでいけるんだと思う。私にとって嵐とJUMPでは、その当てる焦点が決定的に違うというのは非常に面白いなーと、これを書きながら思った。

あと、JUMPに関しては、何年後かに、変わったと思ってたけどやっぱ変わんないよぉおおお、出会った頃の可愛い天使か神様のままだよぉぉおおお、と咽び泣くところまでが1セットだろうな……。