失われる物語について


あの日から、身の内から湧き出る思いは、いつまでも濁ったままだ。
わたしはわたしをどうすればいいかわからず、ずっと途方に暮れている。
あの日、が果たしていつを指すのかというと、それは2024年になって8日目のことだ。
わたしは、ケンティーSexy Zoneを抜けるという知らせを受け取って、「ああ、終わるのだな」と思った。
何が、ではなく全てが。わたしが信じてきたもの、信じたかったもの、これから先に夢見た全て。ふまけんという唯一無二の美しい物語が、終わるのだと思った。

こうなってみて、じっくりと中島健人というアイドルについて考えてみると、わたしは健人担を名乗りながらその実、ふまけんにしか興味がなかったのかもしれない、ということに気づいた。
ふまけんが、ふまけんのことを、意識しているのが好きだった。自分たちに寄せられる期待や、羨望や、邪な何か、清濁全てを知ってなお、私たちにここぞというときに見せてくれる背中合わせの姿が好きだった。
ふまけんが背中合わせになる時、その瞬間、世界は完璧になるとさえ思っていた。全てが二人を輝かせるための舞台装置だった。二人の背中の間に、決して交わらない視線の先に、未来や永遠があるのだと、信じて疑わなかった。

ああ、わたしは、「ふまけん」の物語をずっと読み続けていたかったのだ。
終わりさえ、想像しなかった。愚かにも。
ふまけんがふまけんのことを何よりも大事に思っていたと信じたい。誇らしく思っていたと信じたい。
ふまけんの間に、他の誰の物語も必要なかった。だから、風磨くんがあの日ラジオで言った言葉で、わたしはふまけんに叩きのめされて救われた。令和最大級のふまけんだったし、今後100年現れない奇跡のシンメなのだと思い知って、それが故にもう何も言えないのだと気づいた。部外者が、何を、どんな言葉で伝えるというのか。引き留められるというのか。
あの、菊池風磨にできないことを、誰が。


そうか。これまでの日々は、ただ毎日が奇跡だったのだと思い知る。
彼が見せたいものと、わたしがみたいもの。それらがたまたまイコールで結ばれていたというだけの。
すれ違って初めてそのことに気づくね。

ずっとふまけんの物語を読み続けたかった。
わたしは、新しいアイドル像なんてどうでもよくて、グループの名前や体制が変わることもどうだってよくて、全部好きにしたらいいよ、と思う。
二人が隣にいないのなら、その先にある結果が世界的な成功であれ、夢の達成であれ、国立競技場での公演であれ、わたしには何の価値もない。それはわたしの見たい物語では、もうない。

どんな時も、あなたの全てを、肯定してあげたかった。(物語が続く間は)

わたしがふまけんの間に、どれだけの夢を見たか、あなたは知らないでしょう?
あなたが風磨君を見る時、あなた自身がどんな顔をしていたか。あなたがどれだけ無垢な顔をしていたか。無邪気だったか。幼かったか。アイドルではなく、ただの中島健人としてそこにいたか。
わかるはずがない。わかるはずがない。わかるはずがない。
あなたがどれだけ幸せそうな顔で笑っていたか。誰にも見せない顔で、風磨君と笑っていたか。
わかるはずがない。

全部、呆れるほど美しかったなあ。

世界を置き去りにして、輝きながら走り去っていった、いつかの流れ星はあなたたちだった。



結局ふまけんかよって、あなたは思うだろうか。思えばいい。事実、わたしにはそうだった。
馬鹿みたいだって笑えばいい。それ以外の仕事はどうだってよかったのかよって怒ればいい。
どうだってよかったよ。何だってよかったよ。
ふまけんの存在に比べれば、それ以外は全部些事だよ。
それだけの価値があったんだ、わたしには。
理解しなくていい。わかるなんて言うな。誰も。
わたしの痛みは、わたしだけのものだ。


もう行かなくてはいけない。お互いに、進む方向が違うと気づいてしまったからには、一緒には行けないけれど、でもそれは、不幸では決してない。
振り返れば美しかったと、いずれ笑う日がくるのだろう。その日までただ胸が痛むというだけ。
まだ足取りが覚束ないのは、幸せだった日々の欠片がまばゆくて目が眩むからだね。
ただ、わたしが続くことを切望した物語は、永遠に閉じられるというだけ。
そう言い聞かせてみるだけ。

痛いね。
失うことは痛いことだね。
痛く無くなる日がくるのかはわからないけれど、まだ人生は続く。

それも今はただ苦しい。


ぜんぶ、一生懸命生きていたからだよと、わたしたち、100年後に笑って死のうね。